ようやく貯まるようになる
断水騒ぎとなって何度か停止したが到着して、受水槽に満タンに貯まるようになり安定してきた。バルブ周りから微かな漏れがあり、この部品をモノタロウに手配した。凍結騒動は全国的でなかなか注目品が届かない。完成復旧まで時間を要する。
寒波襲来
山口の実家にあるマンションの居住者さまから、夜10時に水道が止まったたとの連絡があった。1時間後に復旧したが、翌朝再度止まった。やむ無く、神戸から山口に移動することにした。ここ10年なかったことである。
故羽田雄一郎氏の最期のホロスコープ
羽田雄一郎氏が昨年末、急逝された。心よりご冥福をお祈りします。
最期のホロスコープをこのサイトにも掲載しました。生まのれた時の太陽、月、火星に現在の木星、土星がオポジットあるいはスクエアになっていた。アスペクトの占いでは死線が暗示されていた。毎日の運勢点も-1540点となっていた。ここまでの大きなマイナス点は初めて見る。ところが竹内結子氏や三浦春馬氏の毎日の運勢点は死期にはプラス点になっていた。この原因を調べた。毎日の運勢点はすべての惑星が対象でアスペクトもマイナーアスペクトを対象にしている。一方解析占星術はトランジットは木星、土星、天王星、海王星、冥王星の外惑星を対象とし、アスペクトは0°(コンジャンクション)、90°270°(スクエア)、180°(オポジット)としている。羽田雄一郎氏の最期のホロスコープは偶然、外惑星のスクエア、オポジットしかなかったので、解析占星術の評価と毎日の運勢の評価が一致した。竹内結子、三浦春馬氏の毎日の占いでは金星、水星、月などの内惑星が幸運アスペクトになっていた為に合計評価でプラスになっていた。今後、重大な機転を点数で評価する方法を策定していきたい。毎日の運勢点評価を将来運勢評価の為に、外惑星の0°90°180°270°を限定対象としていきたい。
最期のホロスコープをこのサイトにも掲載しました。生まのれた時の太陽、月、火星に現在の木星、土星がオポジットあるいはスクエアになっていた。アスペクトの占いでは死線が暗示されていた。毎日の運勢点も-1540点となっていた。ここまでの大きなマイナス点は初めて見る。ところが竹内結子氏や三浦春馬氏の毎日の運勢点は死期にはプラス点になっていた。この原因を調べた。毎日の運勢点はすべての惑星が対象でアスペクトもマイナーアスペクトを対象にしている。一方解析占星術はトランジットは木星、土星、天王星、海王星、冥王星の外惑星を対象とし、アスペクトは0°(コンジャンクション)、90°270°(スクエア)、180°(オポジット)としている。羽田雄一郎氏の最期のホロスコープは偶然、外惑星のスクエア、オポジットしかなかったので、解析占星術の評価と毎日の運勢の評価が一致した。竹内結子、三浦春馬氏の毎日の占いでは金星、水星、月などの内惑星が幸運アスペクトになっていた為に合計評価でプラスになっていた。今後、重大な機転を点数で評価する方法を策定していきたい。毎日の運勢点評価を将来運勢評価の為に、外惑星の0°90°180°270°を限定対象としていきたい。
新年あけましておめでとうございます
新年あけましておめでとうございます。旧年中はご利用頂きありがとうございました。年改まってユーザーの皆様のご多幸をお祈りいたします。当サイトは新ドメインAstroFine.netに移行する予定ですので今後とも宜しくお願い致します。AstroFine.negで開設の挨拶をさせて頂きました。自己紹介をホロスコープで行っています。ご一読ください。
慈愛に満ちたシスターだった
幼稚園は遥々スペインから日本に来たシスター5人が管理されていた。園長もシスターであった。その下で若い日本人女性の保母さんたちが園児たちを指導していた。手厚い二重管理体制だった。黒い修道服を着た姿には威厳があった。日本人保母が悪戯をする園児にシスターに言いつけるというと皆従った。園児たちは冬は黒一色の服、夏は白一色の服を着ていた。近くにステンドグラスが煌びやかな教会があった。毎週月曜日になると、シスターが200人位の園児たちを引き連れ川伝いの道路を200m位歩きその教会に行きキリストの講話をしていた。川沿いの道路向かいに電車の走る線路が並行していた。電車から見ると可愛らしく荘厳な雰囲気の行列が見えただろう。60年前の戦後の混乱期になぜこのような幼稚園が地方の山口にあったか不思議に思う。今このような運用をしている幼稚園があるだろうか。運用は立派であったが施設は古かった。高貴な話から品の落ちる現実を話すのは恐縮である。下水が普及していない町ではトイレは汲み取り式の便所だった。その幼稚園も例外でなかった。便器は肩幅以上に大きな空間があり底なしの暗闇が下に広がっていた。4歳の私には恐怖であり、とてもその空間を跨ぐ勇気がなかった。全くといいほどその大便器は利用することはなかった。
毎回利用する女子には頭が下がる思いであった。腹の調子が悪くて家までとても持たずに幼稚園でとうとう漏らしてしまったのだ。日本人保母さんは漏らした私を便所前に連れて行き、私にこの場に残るように命じ、管理室に行った。その入れ替わりに二人のシスターが激しくスペイン語で喚きながら飛んできた。彼女たちの言葉は全く理解出来なかったが二人の間で激しいやり取りが子供心にも伝わった。一人は丸顔で小太りで行事の時はいつもピアノを演奏し、園児たちを指導していたが時には感情が籠る時があり、幼児たちも怖がる時もあった。もう一人の女性は背が高く、日本語が上手で子供たちといつも笑顔で接していた。この二人が同時に私のところに駆け寄ってきた。おそらく背の低いシスターは私を叱責するつもりだったのであろう。背の高いシスターが背の低いシスターを宥め、背の低いシスタ―は管理室に帰って行った。残った背の高いシスターは私をあの怖いトイレに連れて行き、私の便の始末を黙々としてくれた。始末が終わるといつものようにニッコリと教室に戻りなさいと言ってくれた。シスターは保母が嫌がることでも慈愛に満ちて接してくれた。このシスターがしてくれた慈愛は私の心に残っている。
毎回利用する女子には頭が下がる思いであった。腹の調子が悪くて家までとても持たずに幼稚園でとうとう漏らしてしまったのだ。日本人保母さんは漏らした私を便所前に連れて行き、私にこの場に残るように命じ、管理室に行った。その入れ替わりに二人のシスターが激しくスペイン語で喚きながら飛んできた。彼女たちの言葉は全く理解出来なかったが二人の間で激しいやり取りが子供心にも伝わった。一人は丸顔で小太りで行事の時はいつもピアノを演奏し、園児たちを指導していたが時には感情が籠る時があり、幼児たちも怖がる時もあった。もう一人の女性は背が高く、日本語が上手で子供たちといつも笑顔で接していた。この二人が同時に私のところに駆け寄ってきた。おそらく背の低いシスターは私を叱責するつもりだったのであろう。背の高いシスターが背の低いシスターを宥め、背の低いシスタ―は管理室に帰って行った。残った背の高いシスターは私をあの怖いトイレに連れて行き、私の便の始末を黙々としてくれた。始末が終わるといつものようにニッコリと教室に戻りなさいと言ってくれた。シスターは保母が嫌がることでも慈愛に満ちて接してくれた。このシスターがしてくれた慈愛は私の心に残っている。
西洋占星術はなぜ当たるか
もともと私はプログラムを作るシステムエンジニアですので理屈で筋を通す性格です。銀行のシステムや計測装置のシステムを自ら作っています。システムから世の中の動きが判ります。例えば電力やガスの自由化です。AUが電気を売る時代です。実はこの自由化は顧客情報や使用料金を共有するシステムが支えているのです。私は20年前にインターネット用プログラムの勉強用として西洋占星術をネット上に開発しました。誕生日さえいれれば運勢を占うシステムです。しばらくメンテナンスをしていなかったのですが3年後に見ると検索順位が1位になっていました。なぜだろうと思い。興味本位で実際に人に会って占う対面占いをこの開発したシステムを使って実際の反応を見よう思いました。そこでショッピングセンターのホールや地方空港の出発ロビー前の傍らで半年に500人くらいに対して対面占いをしました。好評で私の腕を掴んで泣き崩れる女性もいました。6割から8割の割合で運勢を的中させていました。多分ご主人にも言えないような内容まで相談を受けました。なぜ言い当てできるのかと疑問を持ちました。生まれた時の太陽とその周り回る惑星8個と月で占うのが西洋占星術の基本です。太陽、月が西洋占星術は重要です。太陽は社会、父、男性を示します。月は家庭、母、女性を示します。現実世界では人間は太陽から多くの恵みを受けています。日が昇ると人間は活動し、夜になると安眠します。農産物は太陽からの恵みです。熱帯、亜熱帯、温帯、冷帯の区分けも太陽が仕切っています。春夏秋冬の季節も太陽が仕切っています。月も重要です。潮の満ち引きは月の動きによって起こります。女性の生理や動物の繁殖期も月の満ち欠けに従っています。このようなことから太陽、月が人間を対して誘導していると思わざるを得ません。見た目で気が付きませんが、月より遥かに大きい水星、金星、木星、土星なども何等かの信号を人間を伝えているのではないでしょうか。生まれた時の星の組合わせが人生の波を人間に伝え、一人ひとりその波に誘導されているのではないでしょうか。その波の影響力の高い時期を究明したのが西洋占星術ではないかと思います。ですから的中しやすいと思います。ただ人々の努力や怠慢によってその誘導に対して良くなったり悪くなったりする結果が人生だと思います。
不遇な二人が並んで
還暦を迎えると昔のことが思い出される。
その時は重要でないと思っても振り返ると重要な転機だったと思うことがある。今から丁度50年前、高校1年の時、海軍兵学校で有名な広島江田島で集団研修がありました。もちろん戦後25年経ていますので軍のイメージはありませんが、その時、入浴中に飛び込む者から水を浴び、自分の耳に水を入れてしまった。もともと慢性中耳炎を患っていた私はさらに悪化、研修が終わって家に帰っても回復せず、幼少から通ていた耳鼻科の医院で治療を続けていたが。夏が終わっても、セミの声が聞こえるのである。耳鳴りである。気づくと神経質になり、眠れない日々が続いた。ノイローゼ状態であった。その医院に毎日、学校帰りに通っていた。その医院は自宅を改築したらしく、玄関がそのまま入口になり応接室が待合室になり、客間が治療室に変わっているようなものであった。いつものようにその医院に行くと小学校以来、同窓生だった女子高校生が先に来てソファーに座っていた。私と同じ高校でセラー服を着ていた。後肩に取りついたセラーがスカイブルーの色のように明るい目立つ色であった。女子学生にとってはステイタスカラーでありシンボルカラーであった。市中に歩くときも私服でなくそのセラー服を着ることが多い。今でもそのセラー服は続いている。同じ高校に通いステイタスもシンボルも感じない男子学生はそのセラーを青雑巾と呼んでいた。私もその一人であった。待合室は一杯で、その子の座る向かいの壁しか空いているスペースはなかった。私はその壁に背をよりかかり彼女の正面に立った。セラーカラーが良く似合うきりっとした美少女であった。何度か目が合ったが私には気づかない。私を無視しているのかとも思った。彼女は小学校3年の時転校し同じクラスになった。以来3回同じクラスになった。洋子さんという子であった。中学も同じであったがクラスが別なので顔を見ても話すことはなかった。だから4年近く話していないから当然かもしれない。それ以上に私の様子が普通でなかった。髪も伸ばし、顔も黒い、そして臭かったろう。なぜか。。。。耳鳴りが判って以来、耳に水が入ることを極端に恐れた私は髪も洗わないし、顔も洗わない状態であった。長髪になっても切らない。髪がもともと天然パーマで多かったので、今で言うアフロヘアに近かった。高校の先生もパーマでそのようにしたかと思うほどで天然パーマと聞いて諦めていた。そんな私に洋子さんは気づくはずはない。私は洋子さんに対してもっと決定的な劣等感を持っていた。この3か月前に行われていた県内統一高校試験が行われ、その結果が発表されその表紙の成績優秀者ベスト100の一覧に洋子さんの名前があった。女子に限れば県内10番以内だったと思う。そのまま進めば、東大や京大、国立大学医学部に入れる実力である。私は自分の高校でさえ100番にも入れてなかった。向かいに座っている洋子さんは眩いばかりで学業でも近寄り難い存在であった。健康そうで学業優秀で何不自由なく思い通り将来が進める洋子さんがなぜこの医院に来ているのか不思議であった。私を気が付かないままに洋子さんは先に治療室に入った。診療椅子に座った洋子さんは医師と話していた。治療室と待合室にはドアがなく吹き抜けであった。私は待合室壁の治療室入り口付近に寄りかかっていたので、私の聞こえにくい耳でも聞き耳を立てなくてもその内容が聞こえた。如何にも田舎の昔に見られた治療風景である。プライバシーなぞあったものではない。洋子さんの声は押し出すようではっきり聞こえないが医師の声ははっきり聞こえた。どうやら以前に受けた診察結果の報告のようであった。驚愕な言葉が最後に医師から発せられた。将来は声を失うと。小学校転校当初から声がハスキーであった。5年6年も同じクラスであったが絞り出すような声だった。学業は優秀であったがなぜが発表が苦手なようだった。成長するにつれ声帯が異常になったらしい。医師から報告を受けた洋子さんは治療室から待合室に戻った。ソファには別の患者が座っていた。立つしかない。どこに立ち位置を決めるのだろと思った。すると私の横に僅かに開いていた壁に私と同じように壁に背を向けた。身なりを正しくしている女性は決して汚らしい者には近づかないことを経験的に知っている私には不思議であった。洋子さんにとっても声を失うとの宣告は驚愕で絶望的であったのではないだろうか。周囲が全く見えていないのではないだろう。
私の横には気落ちし虚ろな洋子さんがいた。期せずして身体的なことが原因で不遇になった二人が隣合わせに並んだことになった。鬱になった者の前に知り合いが倒れている状況と変わりない。私は人間として何かしないといけない立場になってしまった。1分ばかり互いに無言の状態となった。洋子さんは私を気が付かないので当然無言であった。洋子さんの横顔を見ると絶望の表情しか見えない。しかし洋子さんは取り乱すこともなく威厳があった。それでもこんな話は一人でなく家族ととも聞く話であったと思った。
私は耳鳴りに悩みノイローゼ状態であった。人を助ける力もない。洋子さんがアフロヘヤが私と気が付いていないのでそのまま立ち去ることはできた。しかし洋子さんの落胆した表情を見るとそのまま逃げるわけに行かないと思った。このまま時間が経てば、私は治療室に行き、洋子さんは支払いを済まして帰るばかりである。1分以内に決しなければそのまま無事に終わるであろう。私は胸の高鳴りを覚えた。
声を掛けた「洋子さん」と。 洋子さんは胡散臭いアフロヘアの男に軽蔑の目で見た。しばらくすると眼鏡の奥にある小さな目を思い出したようだ。うっすらと笑みを浮かべた。周囲も軽蔑の目で見られた。アフロヘアの男が少女をナンパしているように見えたのであろう。
1分足らずの会話であったと思う。何を言ったかはっきりと覚えていない。洋子さんの気持ちに追い打ちを掛けたかもしれない。医者の話を聞いたことと元気を出すように言ったことだけを覚えている。洋子さんは話すことが苦しそうで、かすかな笑みだけあった。そして頷くだけであった。ノイローゼ状態の私には精一杯であった。
私はまもなく看護師に呼ばれ診察室に入った。すると医師から他の患者に無闇に声を掛けるなと注意された。ナンパと思われたのだろう。診察室におれば待合室から聞こえて来るのは私の声だけなので一方的な引っ掛けと思われたのであろう。私と洋子さんは小学校以来の同級生であると告げ、本当に声を失うのかと尋ねた。医師は無言であった。私の診察が終わり待合室に戻ると洋子さんはいなかった。もう帰ったのであろう。診療代を払って帰る時にも、受付嬢から無闇に声を掛けるなと言われた。医師に言ったことを繰り返し言ったが受付嬢も無言であった。その後も耳鳴りを止むことなく50年間続いている。しかし、ノイローゼから脱している。洋子さんの声がでないことに比べれば私が我慢すれば日常の生活には何ら影響がない。洋子さんの不遇を比較し自分の不遇はゴミのようなものだ。洋子さんの不遇を自分の慰めにするとは恥ずべき考えと思う。しかし結果的にそうなってしまった。洋子さんとはその後50年会っていない。その間同窓会もあったが姿を見ていない。同窓生の元女子高生に聞いても消息は分からないという。洋子さんが元気にやり、生涯を遂げていればと願うばかりである。洋子さんが本当に行き詰っていたら同じ高校に通っていたのだから、溺れる者は藁を掴むとの諺の通り、洋子さんは藁の私のところに着たろう。洋子さんは溺れていないのだろう。
洋子さんとは何もないことでもなかった。洋子さんが転校間もない頃、同窓生にそそのかされて、洋子さんの家に行き遊びに行こうと言ったことがある。デート申し込みのようなものだ。ピアノの練習があるからと言って早速断られた。小学校高学年になると、同じ位の身長だったので運動会のフォークダンスや体操の相手になることが多かった。2時間の遠足の時も隣合わせだった。私に何かの思いがあったのだろう。洋子さんに手を伸ばすと洋子さんも手を握った。1時間位握っていたのだろうか。互いの手が汗で一杯になったので互いに了解の上で手を離した。
一瞬一瞬が後悔のない人生を送りたい。本件は後悔はないと思うが、振り返ると後悔の人生を歩んだと懺悔することが多くなった。
その時は重要でないと思っても振り返ると重要な転機だったと思うことがある。今から丁度50年前、高校1年の時、海軍兵学校で有名な広島江田島で集団研修がありました。もちろん戦後25年経ていますので軍のイメージはありませんが、その時、入浴中に飛び込む者から水を浴び、自分の耳に水を入れてしまった。もともと慢性中耳炎を患っていた私はさらに悪化、研修が終わって家に帰っても回復せず、幼少から通ていた耳鼻科の医院で治療を続けていたが。夏が終わっても、セミの声が聞こえるのである。耳鳴りである。気づくと神経質になり、眠れない日々が続いた。ノイローゼ状態であった。その医院に毎日、学校帰りに通っていた。その医院は自宅を改築したらしく、玄関がそのまま入口になり応接室が待合室になり、客間が治療室に変わっているようなものであった。いつものようにその医院に行くと小学校以来、同窓生だった女子高校生が先に来てソファーに座っていた。私と同じ高校でセラー服を着ていた。後肩に取りついたセラーがスカイブルーの色のように明るい目立つ色であった。女子学生にとってはステイタスカラーでありシンボルカラーであった。市中に歩くときも私服でなくそのセラー服を着ることが多い。今でもそのセラー服は続いている。同じ高校に通いステイタスもシンボルも感じない男子学生はそのセラーを青雑巾と呼んでいた。私もその一人であった。待合室は一杯で、その子の座る向かいの壁しか空いているスペースはなかった。私はその壁に背をよりかかり彼女の正面に立った。セラーカラーが良く似合うきりっとした美少女であった。何度か目が合ったが私には気づかない。私を無視しているのかとも思った。彼女は小学校3年の時転校し同じクラスになった。以来3回同じクラスになった。洋子さんという子であった。中学も同じであったがクラスが別なので顔を見ても話すことはなかった。だから4年近く話していないから当然かもしれない。それ以上に私の様子が普通でなかった。髪も伸ばし、顔も黒い、そして臭かったろう。なぜか。。。。耳鳴りが判って以来、耳に水が入ることを極端に恐れた私は髪も洗わないし、顔も洗わない状態であった。長髪になっても切らない。髪がもともと天然パーマで多かったので、今で言うアフロヘアに近かった。高校の先生もパーマでそのようにしたかと思うほどで天然パーマと聞いて諦めていた。そんな私に洋子さんは気づくはずはない。私は洋子さんに対してもっと決定的な劣等感を持っていた。この3か月前に行われていた県内統一高校試験が行われ、その結果が発表されその表紙の成績優秀者ベスト100の一覧に洋子さんの名前があった。女子に限れば県内10番以内だったと思う。そのまま進めば、東大や京大、国立大学医学部に入れる実力である。私は自分の高校でさえ100番にも入れてなかった。向かいに座っている洋子さんは眩いばかりで学業でも近寄り難い存在であった。健康そうで学業優秀で何不自由なく思い通り将来が進める洋子さんがなぜこの医院に来ているのか不思議であった。私を気が付かないままに洋子さんは先に治療室に入った。診療椅子に座った洋子さんは医師と話していた。治療室と待合室にはドアがなく吹き抜けであった。私は待合室壁の治療室入り口付近に寄りかかっていたので、私の聞こえにくい耳でも聞き耳を立てなくてもその内容が聞こえた。如何にも田舎の昔に見られた治療風景である。プライバシーなぞあったものではない。洋子さんの声は押し出すようではっきり聞こえないが医師の声ははっきり聞こえた。どうやら以前に受けた診察結果の報告のようであった。驚愕な言葉が最後に医師から発せられた。将来は声を失うと。小学校転校当初から声がハスキーであった。5年6年も同じクラスであったが絞り出すような声だった。学業は優秀であったがなぜが発表が苦手なようだった。成長するにつれ声帯が異常になったらしい。医師から報告を受けた洋子さんは治療室から待合室に戻った。ソファには別の患者が座っていた。立つしかない。どこに立ち位置を決めるのだろと思った。すると私の横に僅かに開いていた壁に私と同じように壁に背を向けた。身なりを正しくしている女性は決して汚らしい者には近づかないことを経験的に知っている私には不思議であった。洋子さんにとっても声を失うとの宣告は驚愕で絶望的であったのではないだろうか。周囲が全く見えていないのではないだろう。
私の横には気落ちし虚ろな洋子さんがいた。期せずして身体的なことが原因で不遇になった二人が隣合わせに並んだことになった。鬱になった者の前に知り合いが倒れている状況と変わりない。私は人間として何かしないといけない立場になってしまった。1分ばかり互いに無言の状態となった。洋子さんは私を気が付かないので当然無言であった。洋子さんの横顔を見ると絶望の表情しか見えない。しかし洋子さんは取り乱すこともなく威厳があった。それでもこんな話は一人でなく家族ととも聞く話であったと思った。
私は耳鳴りに悩みノイローゼ状態であった。人を助ける力もない。洋子さんがアフロヘヤが私と気が付いていないのでそのまま立ち去ることはできた。しかし洋子さんの落胆した表情を見るとそのまま逃げるわけに行かないと思った。このまま時間が経てば、私は治療室に行き、洋子さんは支払いを済まして帰るばかりである。1分以内に決しなければそのまま無事に終わるであろう。私は胸の高鳴りを覚えた。
声を掛けた「洋子さん」と。 洋子さんは胡散臭いアフロヘアの男に軽蔑の目で見た。しばらくすると眼鏡の奥にある小さな目を思い出したようだ。うっすらと笑みを浮かべた。周囲も軽蔑の目で見られた。アフロヘアの男が少女をナンパしているように見えたのであろう。
1分足らずの会話であったと思う。何を言ったかはっきりと覚えていない。洋子さんの気持ちに追い打ちを掛けたかもしれない。医者の話を聞いたことと元気を出すように言ったことだけを覚えている。洋子さんは話すことが苦しそうで、かすかな笑みだけあった。そして頷くだけであった。ノイローゼ状態の私には精一杯であった。
私はまもなく看護師に呼ばれ診察室に入った。すると医師から他の患者に無闇に声を掛けるなと注意された。ナンパと思われたのだろう。診察室におれば待合室から聞こえて来るのは私の声だけなので一方的な引っ掛けと思われたのであろう。私と洋子さんは小学校以来の同級生であると告げ、本当に声を失うのかと尋ねた。医師は無言であった。私の診察が終わり待合室に戻ると洋子さんはいなかった。もう帰ったのであろう。診療代を払って帰る時にも、受付嬢から無闇に声を掛けるなと言われた。医師に言ったことを繰り返し言ったが受付嬢も無言であった。その後も耳鳴りを止むことなく50年間続いている。しかし、ノイローゼから脱している。洋子さんの声がでないことに比べれば私が我慢すれば日常の生活には何ら影響がない。洋子さんの不遇を比較し自分の不遇はゴミのようなものだ。洋子さんの不遇を自分の慰めにするとは恥ずべき考えと思う。しかし結果的にそうなってしまった。洋子さんとはその後50年会っていない。その間同窓会もあったが姿を見ていない。同窓生の元女子高生に聞いても消息は分からないという。洋子さんが元気にやり、生涯を遂げていればと願うばかりである。洋子さんが本当に行き詰っていたら同じ高校に通っていたのだから、溺れる者は藁を掴むとの諺の通り、洋子さんは藁の私のところに着たろう。洋子さんは溺れていないのだろう。
洋子さんとは何もないことでもなかった。洋子さんが転校間もない頃、同窓生にそそのかされて、洋子さんの家に行き遊びに行こうと言ったことがある。デート申し込みのようなものだ。ピアノの練習があるからと言って早速断られた。小学校高学年になると、同じ位の身長だったので運動会のフォークダンスや体操の相手になることが多かった。2時間の遠足の時も隣合わせだった。私に何かの思いがあったのだろう。洋子さんに手を伸ばすと洋子さんも手を握った。1時間位握っていたのだろうか。互いの手が汗で一杯になったので互いに了解の上で手を離した。
一瞬一瞬が後悔のない人生を送りたい。本件は後悔はないと思うが、振り返ると後悔の人生を歩んだと懺悔することが多くなった。
新規オープンしたサイトがサーバー障害
新規にastrofine.netをオープンしましたが、オープン2日後にレンタルサーバーしているロリポップからサーバーがダウンしたとの連絡がありました。10時間以上繋がりません。こちら側のinternetkobe.jp/horoscope/は正常に稼働しています。こちらのページをご利用ください。
マクドナルドでプログラム製作
今、神戸学園都市のマクドナルドでプログラム製作をしている。人々の雑談を聞きや顔を見るのは楽しい。初老の人が近くで自転車と接触事故を起こしたらしい。保険会社と電話していた。状況がまるでわかる。横断歩道で自転車が後から突っ込んできたという。世間常識からすると自動車が不利と思う。車にはドラレコが必要と思う。人の顔を見るのも楽しい。この人はどんな人生を歩んできたのだろう。今後どのように進むのだろうと思いを馳せる。近くの幼稚園帰りの母子たちもマクドで昼食。20年前、娘たちも通った幼稚園。懐かしい。可愛らしい。パソコンのバッテリーが切れそうになったので、電源のある椅子に移動した。隣はもくもくとゲームに没頭するお姉さん。こうしたなかでプログラムを作るのが効率がいい。気楽に常に気晴らしができる。朝来ていた時は晴ていて窓際で日向ぼっこしていた。今冷たい雲が立ち込めている。窓際は寒い。
一応引越し先を製作しました
現状のページinternetkobe.jp/horoscope/はしばらくそのままにしていますが、astro.netに転居しました。転居に際して、データやファイルを整理しました。課題や問題点も見つかりました。今後とも改善を務めて参りますので宜しくご利用ください。
いままで | 昨日 | 今日 |
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